初めての被災地 東京外国語大3年 飯岡真凜
河北新報社 記者と駆けるインターン4日目。
本日のブログを担当します、東京外国語大3年の飯岡真凜です。
今日は、東日本大震災の津波で大きな被害を受けた宮城県名取市閖上に行きました。
私は津波被災地に訪れる事自体が初めてで、驚きと衝撃の連続でした。
同じ宮城県の富谷市に生まれ育ちながら、足を踏み入れることが出来なかった津波被災地。
「行きたくない」と思っていたわけではありません。
自宅も揺れの被害があったので、私も「被災者」といえば被災者。
でも沿岸部の津波被災地は、なぜかどこか遠い世界の出来事のようで、
特段の事情もないままに、訪れることがないまま月日だけが流れていました。
現地では、閖上で生まれ育った水道工事業、長沼俊幸さんに案内していただきました。
津波で家を流され、6年余りの仮設住宅生活を経て、やっと昨年7月に閖上に自宅を再建しました。
長沼さんの後について、閖上地区のシンボルである高さ6.2メートルの築山「日和山」に登りました。石段を上がること35段。眼下に広がっていたのは、瓦礫が片付けられ、新しいまちづくりのために土盛りの工事などが続く、「工事現場」の風景でした。
長沼さんからは被災直後の様子に加え、かつての閖上の町並みや暮らしについて聞きましたが、一見しただけでは想像がつかないくらい、かつての暮らしの面影や賑わいを感じさせるものはありませんでした。
犠牲者を弔う慰霊碑に手を合わせ、黙祷を捧げた後、伝承施設の「閖上の記憶」を訪問。
かつて閖上で商売をしていた人たちが入る仮設商店街「閖上さいかい市場」にも足を運び、店主らに話を聞きました。
被災地初訪問。私にとっては、「知らなかった」だらけでした。
カップ麺以外の温かい食べ物が手に入らなかった避難所生活。
家族2人で暮らすにも、狭さがストレスになった6年に及ぶ仮設住宅暮らし。
自宅再建に重くのしかかった、流された家と新築する家との二重ローン。
その現場にいて、その日々を過ごした人にしか分からない実相に触れ、私の頭と心の中はいっぱいになりました。
どんな支援があるのか、どんな制度が必要なのか、これからの災害に備えは何が重要なのか。
情報も感情も消化不良のまま帰りのバスに揺られました。
これまで私は、テレビ番組や新聞記事を通して、震災の情報を得てきたつもりでした。
SNSで「#東日本大震災を忘れない」と毎年3月11日に投稿することもしてきました。
でも今日の訪問を通して、私の理解は被災地の現実と大きく乖離していたことを実感しました。報道で「悲惨な出来事を忘れてはいけない」「復興に向かって頑張ろう」と沢山聞いてきたものの、その受け止めは、ごくごく表面的だった気がします。
報道を真正面から受け止めるにも最低限ベースがないと伝わりきらないのだと、自分のこれまでへの反省も込めて考えました。
「同じ宮城県民でありながら震災のことをあまりに知らなさすぎた」というのが正直な感想です。
今回初めて津波被災地を訪れ、閖上を訪れ、今後は「被災地」「閖上」というニュースに接した時に、もっとリアリティーを持って、今日見た光景を思い浮かべながら受け止めることが出来るような気がします。
「微妙な被災者」である私が震災に向き合う、最初の一歩となる日になりました。
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