あの日の閖上に迫る 武蔵大3年 漢人薫平
記者インターン4日目のブログ担当は、武蔵大3年の漢人薫平(かんど・くんぺい)です。千葉の船橋に住んでいます。東北に来るのは2回目です。
去年の11月、大学のゼミ活動の一環で石巻市を訪問しました。日和山公園から見た光景が強く記憶に刻まれています。真新しい家と道路が覆う清潔すぎる街に、むしろ寂しさを感じました。人の気配は薄く、行き交うのはトラックばかり…。しかし、これが復興の歩みなのだろうとも思いました。
今朝の9時、河北新報をバスで出発し、津波で大きな被害を受けた名取市閖上に向かいました。とはいえ、乗車したのは参加学生14人中12人。活動4日目にして、ついに2人目の遅刻者が現れました(涙)。
会社を出て20分ほど進んだ高速道路「仙台東部道路」で案内役の大泉大介記者が「津波はここまで来た。盛り土になっている高速道路でやっと止まった」と紹介しました。そこから海は遥か遠く見えました。「まさかここまで津波が来るなんて…」。あの日多くの人がそう感じたであろうことを、僕も追体験しました。
閖上の案内は、地元の笹かまぼこ店「ささ圭」のおかみ、佐々木靖子さん(65)にしていただきました。佐々木さんも「閖上に津波が来るなんて」と話していました。
佐々木さん曰く、「津波が到達した所と、そうでない所は、クッキリ線引きされる。天国と地獄。津波は残酷だ」。同じ地域に暮らしながら、家を失った人、無傷だった人。家族を亡くした人、無事だった人。被害が小さかったからと言って、手放しで喜べない自然災害の非情さを感じました。
閖上到着後は、地域のシンボルである小高い人工の築山「日和山」で手を合わせ、閖上を襲った8・4mの津波と同じ高さの慰霊碑に黙祷を捧げました。脇に立つ芳名板には、名取市で犠牲になった944人の名前がありました。一人一人に人生があり、家族があったことを思うと、胸が苦しくなりました。
慰霊碑近くにある震災伝承施設「閖上の記憶」では、閖上の自宅を津波で流された長沼俊幸さん(54)の体験談を聞きました。妻と二人、自宅と共に流されながら九死に一生を得た長沼さんは、両親も3人の子どもも無事でした。それでもその後の避難所生活と仮設住宅暮らしは6年数ヶ月に及び、やっと先月、閖上に新居を構え、故郷に戻れました。
「毎日朝晩、窓を開けると閖上の匂いがするんです。住んでいた人でないと分からないと思うんですが、安心するんです」。嬉しげな表情に、辛苦を乗り越えて故郷に戻れた感慨が滲んでいました。
震災を体験した人が、辛い体験を人前であえて話すのはなぜか―。長沼さんは「同じ苦しみを繰り返してほしくないから」と言います。では、体験談を聞いた我々の役目は何か―。おのおのが宿題を背負いました。
13日間を駆けるのに、4日目にして早くも体力や気力に陰りが見え始めました。14人は夜、ラインで励まし合いながら連日のように課せられる宿題に向き合っています。
とはいえ、辛い事ばかりではありません。今日17日が22回目の誕生日だったメンバーがいます。2日目のブログを書いた上智大3年、松本日菜子さん。デスク陣からサプライズのアイスの差し入れを味わいながら、みんなで「♩ハッピーバースデー、トゥー、ユー…♩」。ハーモーニーでメンバー同士の絆が深まりました。
明日からは、記者と駆けるインターンの最大の山場である企業への取材が、本格的に始まる予定です。これまでの4日間、模擬取材や原稿執筆の練習に取り組み、多くのメンバーが苦しみながらも課題を乗り越えてきました。その中で培った力を120%発揮できるよう、明日からの取材に十分な準備をして臨みたいと思います。
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