いのちの宝物
「絶対に動物園が必要とされる時が来る。そう信じていました」
仙台市太白区八木山にある八木山動物公園の園長遠藤源一郎さん(60)は語る。
47年間、市民憩いの場として多くの人から親しまれてきた同園は、東に仙台の街並みと、はるか向こうに太平洋を望む高台にある。美しい景観の中で、かつてとは異なることがある。2年前の東日本大震災の津波被害で、海岸の松林が無くなり、海が広く見えるようになったことだ。
【来園者に動物たちの生態系を説明する遠藤さん】
2011年3月11日、大きな揺れが同園を襲った。飼育員は動物たちが無事か、確認に奔走した。キリンはおびえて檻の中を走り回り、大きな猿山は崩れていた。職員は、動物たちが外に逃げ出さないよう、安全な室内に避難させた。
停電により、暖房設備はストップした。寒さに弱い爬虫類を守るため、ストーブなどの使える暖房器具を小さな部屋に集め、動物を温めた。数日間は、飼育員が交代で泊り込み、日夜にわたって動物の様子を見守った。異変におびえる動物たちを安心させるため、落ち着いた態度で声をかけることを心掛けた。
「震災の時に迅速な対応ができたのは、普段の飼育員と動物のコミュニケーションの積み重ねがあったからです。動物たちのささいな変化にも敏感に対応できました。彼らは、動物が何をしてほしいかを察する力があるんです」
飼育展示課の釜谷大輔さん(41)は振り返る。釜谷さんは、獣医として同園に勤務してきた。
だがやはり普段とは違う生活で、体調を崩す動物も多かった。チンパンジーのチャチャは、ストレスをため込み、一時はこん睡状態に陥ってしまった。釜谷さんを中心に懸命の治療を続け、何とか一命を取り留めた。
最も深刻だったのは水不足。動物の飲み水や住処、清掃のために、動物園は大量の水を必要とする。1日の使用量は約300トン。しかし、園内の貯蔵タンクに残っていたのは、わずかに270トン。断水でいつ水が補給できるか分からない状況だった。
近くで地下鉄工事中だった業者のトラックを借り、水を供給してもらった。当面は飲み水のみに使用し、何とか窮地を乗り越えた。
食料も不足した。わずかな蓄えから、量を減らして動物に与えた。「人間のことが一番心配なことだから、我々は粛々と、今は耐えよう」。遠藤園長の決意は固かった。
しかし、職員の心の中には、不安や孤独感もあった。「引け目を感じていたということもあります。多くの人が苦しんでいる中、動物園が食料を大量にもらっていいのかという思いがありました」と釜谷さん。
震災から1週間後、日本動物園水族館協会の取りまとめで、全国の動物園、水族館から、えさなどの救援物資が届けられた。苦しい状況に差し込んだ光明。えさが入った麻袋には、各地からのエールが書き込まれていた。その文字に力づけられた。
「動物を愛する仲間からの支援が届いたことがうれしかった。職員総出で運び込みました」
釜谷さんは振り返る。
動物たちは徐々に落ち着きを取り戻し、物資や施設の復旧も進み、再開のめどが立った。遠藤さんは「たくさんの人に応援してもらったから、元気を与えられるように頑張りたいと思いました。人々の生活が落ち着いてきたのを見計らって、運営を再開しました」と語る。
震災から43日後の4月23日に園を再開し、待ちわびた多くの人が訪れた。
【震災直後の状況を振り返る釜谷さん。八木山動物公園では、当時の様子や復旧の記録を展示している】
「最初は、うちらのほうから元気付けようという気持ちでした。でも、来園者から『大丈夫でしたか』と声をかけてもらうことが多かった。子供たちが笑顔を見せてくれるのが嬉しかった。むしろ、こちらが元気をもらいました」と釜谷さん。
釜谷さんには、再開以降、多くの来園者に言われ、印象に残っている言葉がある。
『動物たちを守ってくれてありがとう』
地域の人の中には、ある動物を好きになると、その動物のためだけに何度も足を運ぶ人も多い。一匹一匹の動物を愛するファンがいる。
震災を経験し、不安を抱える人はたくさんいた。動物園を訪れて目にするのは、震災前と変わらない日常。動物たちが刻む、落ち着いた生のリズムを感じることで、多くのものを失った心にゆとりが生まれるのかもしれない。遠藤園長や釜谷さんら職員が必死に守ったのは、そんな「宝物」だった。
「動物たちが変わらないように見えると、安心できると思います。気張って大きなイベントをやるわけではなく、彼らが安心して生きられるように努力し、来園者に、変わらない動物たちの姿に届け続けたいです」
(下澤大祐@東北大)
仙台市太白区八木山にある八木山動物公園の園長遠藤源一郎さん(60)は語る。
47年間、市民憩いの場として多くの人から親しまれてきた同園は、東に仙台の街並みと、はるか向こうに太平洋を望む高台にある。美しい景観の中で、かつてとは異なることがある。2年前の東日本大震災の津波被害で、海岸の松林が無くなり、海が広く見えるようになったことだ。
【来園者に動物たちの生態系を説明する遠藤さん】
2011年3月11日、大きな揺れが同園を襲った。飼育員は動物たちが無事か、確認に奔走した。キリンはおびえて檻の中を走り回り、大きな猿山は崩れていた。職員は、動物たちが外に逃げ出さないよう、安全な室内に避難させた。
停電により、暖房設備はストップした。寒さに弱い爬虫類を守るため、ストーブなどの使える暖房器具を小さな部屋に集め、動物を温めた。数日間は、飼育員が交代で泊り込み、日夜にわたって動物の様子を見守った。異変におびえる動物たちを安心させるため、落ち着いた態度で声をかけることを心掛けた。
「震災の時に迅速な対応ができたのは、普段の飼育員と動物のコミュニケーションの積み重ねがあったからです。動物たちのささいな変化にも敏感に対応できました。彼らは、動物が何をしてほしいかを察する力があるんです」
飼育展示課の釜谷大輔さん(41)は振り返る。釜谷さんは、獣医として同園に勤務してきた。
だがやはり普段とは違う生活で、体調を崩す動物も多かった。チンパンジーのチャチャは、ストレスをため込み、一時はこん睡状態に陥ってしまった。釜谷さんを中心に懸命の治療を続け、何とか一命を取り留めた。
最も深刻だったのは水不足。動物の飲み水や住処、清掃のために、動物園は大量の水を必要とする。1日の使用量は約300トン。しかし、園内の貯蔵タンクに残っていたのは、わずかに270トン。断水でいつ水が補給できるか分からない状況だった。
近くで地下鉄工事中だった業者のトラックを借り、水を供給してもらった。当面は飲み水のみに使用し、何とか窮地を乗り越えた。
食料も不足した。わずかな蓄えから、量を減らして動物に与えた。「人間のことが一番心配なことだから、我々は粛々と、今は耐えよう」。遠藤園長の決意は固かった。
しかし、職員の心の中には、不安や孤独感もあった。「引け目を感じていたということもあります。多くの人が苦しんでいる中、動物園が食料を大量にもらっていいのかという思いがありました」と釜谷さん。
震災から1週間後、日本動物園水族館協会の取りまとめで、全国の動物園、水族館から、えさなどの救援物資が届けられた。苦しい状況に差し込んだ光明。えさが入った麻袋には、各地からのエールが書き込まれていた。その文字に力づけられた。
「動物を愛する仲間からの支援が届いたことがうれしかった。職員総出で運び込みました」
釜谷さんは振り返る。
動物たちは徐々に落ち着きを取り戻し、物資や施設の復旧も進み、再開のめどが立った。遠藤さんは「たくさんの人に応援してもらったから、元気を与えられるように頑張りたいと思いました。人々の生活が落ち着いてきたのを見計らって、運営を再開しました」と語る。
震災から43日後の4月23日に園を再開し、待ちわびた多くの人が訪れた。
【震災直後の状況を振り返る釜谷さん。八木山動物公園では、当時の様子や復旧の記録を展示している】
「最初は、うちらのほうから元気付けようという気持ちでした。でも、来園者から『大丈夫でしたか』と声をかけてもらうことが多かった。子供たちが笑顔を見せてくれるのが嬉しかった。むしろ、こちらが元気をもらいました」と釜谷さん。
釜谷さんには、再開以降、多くの来園者に言われ、印象に残っている言葉がある。
『動物たちを守ってくれてありがとう』
地域の人の中には、ある動物を好きになると、その動物のためだけに何度も足を運ぶ人も多い。一匹一匹の動物を愛するファンがいる。
震災を経験し、不安を抱える人はたくさんいた。動物園を訪れて目にするのは、震災前と変わらない日常。動物たちが刻む、落ち着いた生のリズムを感じることで、多くのものを失った心にゆとりが生まれるのかもしれない。遠藤園長や釜谷さんら職員が必死に守ったのは、そんな「宝物」だった。
「動物たちが変わらないように見えると、安心できると思います。気張って大きなイベントをやるわけではなく、彼らが安心して生きられるように努力し、来園者に、変わらない動物たちの姿に届け続けたいです」
(下澤大祐@東北大)
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