閖上で「伝える」を考える 東北大修士1年 佐々木 佳
いよいよ活動も折り返し地点!
11月10日分の活動報告は、東北大学修士1年の佐々木 佳です。普段にも増して中身の濃い日だったので、どのようにまとめるべきか色々と思案しながら書いています。
キーワードは「伝える」です。
朝、私たちはまず名取市の閖上地区に向かいました。
閖上を案内して下さったのは、笹かまぼこの「ささ圭」おかみ、
佐々木靖子さんです。
閖上は津波で市街地が壊滅し、多くの犠牲者を出しました。「ささ圭」も本店と3つの工場、佐々木さんの自宅を失うなど、被害は深刻でした。それでも、震災の約4ヶ月後、唯一残った市内内陸部の店舗で、手作りによる笹かま製造を再開。昨年には市中心部に工場を再建しました。
約5500人の人々が暮らしていたという地区の家々はもちろん、海岸線を彩っていた松林もすっかり失われ、海からの風を遮るものが何もない閖上。
地区を見渡す地区唯一の小高い丘「日和山」の上では、
人々が祈りを込めて奉納した絵馬が風に巻かれてぶつかり合い、
カラカラと音を立て続けていました。
うまく伝える言葉の見つからない、物悲しい音でした。
遠くに霞む仙台のビル街に、何かを訴えかけているかのようです。
どうして、こんなことになってしまったのか。
日和山のふもとに横たわる石碑に、「伝える」ことの難しさを
考えさせられる一文がありました。
「地震があつたら津浪の用心」
この石碑は、80年前に東北地方を襲った
「昭和三陸地震津波」後に建立され、
東日本大震災前まで日和山の頂上にあったということです。
後世に津波の脅威を無言で伝えていた石碑。
しかし、多くの閖上の人々は
石碑の存在を強く意識することはなかったといいます。
「閖上に津波は来ない」
先祖からの警鐘を気に止めることなく、誰もが地区の安全を盲信していたところを津波が襲ったのです。
佐々木さんも、石碑の存在を知ったのは震災後だったそうです。
「震災を風化させないで」
震災から2年8ヶ月。あの日から月日がたつにつれて耳にする機会が多くなった言葉です。
この想いを胸に、インターンに参加している学生もいます。
私は無念そうに横たわる石碑を見ながら、
「風化させないこと」の難しさを痛感しました。
私たち若い世代は「伝える」立場にある以上、
ただ書く、話すだけではなく
「どのように伝えれば、伝わるのか」を、常に考え続けなければならない。
佐々木さんの案内で閖上小学校や中学校を見て回り、
手を合わせながら、ずっとそのことを考えていました。
「どのように伝えれば、伝わるのか」
最初の実践の場は、
閖上から河北新報社に戻ってすぐに到来しました。
閖上で感じた「今」を1時間で書き上げる。
私は、思うように進まない閖上の復興に対する住民の声を
「戻りたい」「戻りたくない」以外の具体的な言葉で「伝える」べく、
仮設商店街で写真館を営む男性に伺った話を題材に選びました。
その後は、以前みんなで取材し原稿を執筆した
「大豆カンパニー」代表の本木さんの記事の第二回相互批評に挑みました。
本木さん核心を的確に捉え、「伝える」にはどう書くべきか。
どの人の原稿も以前とは格段にレベルアップしており、
批評する側もされる側も真剣そのものです。
今回も予定した時間をオーバーして、
熱く濃厚な一日は終わりました。
「どのように伝えれば、伝わるのか」
高尚な問いを掲げるには、文章はあまりにも未熟です。
次なる実践の機会、
「被災地の中小企業」の記事を書き上げていく中で、
その答えを一つずつ見つけていければと思っています。
そうそう!
さきほど母に「最近、いい顔してるんじゃない?」
と言われました。
急にイケメン化したとは思えませんから、
インターンでの充実感が顔つきに表れ始めているのかもしれません。
だとしたら嬉しいことですね。
私はどんな顔をして最終日を迎えているのか、
今から楽しみです。
最後の写真は「閖上さいかい市場」で、
お世話になった「ささ圭」の社長ご夫妻と撮らせていただいた
集合写真です。
最後までお読みいただきありがとうございました。
私どもインターン生一同、後半も頑張って参ります!
11月10日分の活動報告は、東北大学修士1年の佐々木 佳です。普段にも増して中身の濃い日だったので、どのようにまとめるべきか色々と思案しながら書いています。
キーワードは「伝える」です。
朝、私たちはまず名取市の閖上地区に向かいました。
閖上を案内して下さったのは、笹かまぼこの「ささ圭」おかみ、
佐々木靖子さんです。
閖上は津波で市街地が壊滅し、多くの犠牲者を出しました。「ささ圭」も本店と3つの工場、佐々木さんの自宅を失うなど、被害は深刻でした。それでも、震災の約4ヶ月後、唯一残った市内内陸部の店舗で、手作りによる笹かま製造を再開。昨年には市中心部に工場を再建しました。
約5500人の人々が暮らしていたという地区の家々はもちろん、海岸線を彩っていた松林もすっかり失われ、海からの風を遮るものが何もない閖上。
地区を見渡す地区唯一の小高い丘「日和山」の上では、
人々が祈りを込めて奉納した絵馬が風に巻かれてぶつかり合い、
カラカラと音を立て続けていました。
うまく伝える言葉の見つからない、物悲しい音でした。
遠くに霞む仙台のビル街に、何かを訴えかけているかのようです。
どうして、こんなことになってしまったのか。
日和山のふもとに横たわる石碑に、「伝える」ことの難しさを
考えさせられる一文がありました。
「地震があつたら津浪の用心」
この石碑は、80年前に東北地方を襲った
「昭和三陸地震津波」後に建立され、
東日本大震災前まで日和山の頂上にあったということです。
後世に津波の脅威を無言で伝えていた石碑。
しかし、多くの閖上の人々は
石碑の存在を強く意識することはなかったといいます。
「閖上に津波は来ない」
先祖からの警鐘を気に止めることなく、誰もが地区の安全を盲信していたところを津波が襲ったのです。
佐々木さんも、石碑の存在を知ったのは震災後だったそうです。
「震災を風化させないで」
震災から2年8ヶ月。あの日から月日がたつにつれて耳にする機会が多くなった言葉です。
この想いを胸に、インターンに参加している学生もいます。
私は無念そうに横たわる石碑を見ながら、
「風化させないこと」の難しさを痛感しました。
私たち若い世代は「伝える」立場にある以上、
ただ書く、話すだけではなく
「どのように伝えれば、伝わるのか」を、常に考え続けなければならない。
佐々木さんの案内で閖上小学校や中学校を見て回り、
手を合わせながら、ずっとそのことを考えていました。
「どのように伝えれば、伝わるのか」
最初の実践の場は、
閖上から河北新報社に戻ってすぐに到来しました。
閖上で感じた「今」を1時間で書き上げる。
私は、思うように進まない閖上の復興に対する住民の声を
「戻りたい」「戻りたくない」以外の具体的な言葉で「伝える」べく、
仮設商店街で写真館を営む男性に伺った話を題材に選びました。
その後は、以前みんなで取材し原稿を執筆した
「大豆カンパニー」代表の本木さんの記事の第二回相互批評に挑みました。
本木さん核心を的確に捉え、「伝える」にはどう書くべきか。
どの人の原稿も以前とは格段にレベルアップしており、
批評する側もされる側も真剣そのものです。
今回も予定した時間をオーバーして、
熱く濃厚な一日は終わりました。
「どのように伝えれば、伝わるのか」
高尚な問いを掲げるには、文章はあまりにも未熟です。
次なる実践の機会、
「被災地の中小企業」の記事を書き上げていく中で、
その答えを一つずつ見つけていければと思っています。
そうそう!
さきほど母に「最近、いい顔してるんじゃない?」
と言われました。
急にイケメン化したとは思えませんから、
インターンでの充実感が顔つきに表れ始めているのかもしれません。
だとしたら嬉しいことですね。
私はどんな顔をして最終日を迎えているのか、
今から楽しみです。
最後の写真は「閖上さいかい市場」で、
お世話になった「ささ圭」の社長ご夫妻と撮らせていただいた
集合写真です。
最後までお読みいただきありがとうございました。
私どもインターン生一同、後半も頑張って参ります!
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