津波被災地の、いま
バスから降りると、涼しい風が通り抜ける。
息を吸い込むと、かすかに潮の香りを感じる。
宮城県名取市の閖上地区。
インターン5日目の22日、私たち学生35人は、
東日本大震災で大きな被害を受けた津波被災地に立ちました。
本日のブログは、東北大学3年・小田嶋美咲が担当します。
9割の学生にとって、閖上を訪れるのは今回が初めてでした。
山形出身の私自身、津波被災地を訪れること自体、これが初めてです。
地元でささかまぼこ店「ささ圭」を営んでいる佐々木靖子さんが案内してくれました。
佐々木さんの店と工場は震災以前、閖上にありました。
地震発生時も閖上にいて、ぎりぎりのところで家族ともども命をつなぎました。
いまは内陸に数キロ入った名取市増田の店で営業を再開しています。
閖上で最初に訪れたのは日和山という約6メートルの小高い丘でした。
震災後は、約800人が亡くなった閖上地区の慰霊の場として、多くの方が訪れています。
日和山からは閖上地区全体が見渡せます。
東はすぐ近くに太平洋。海岸線に沿って、防波堤が造り直されていました。
閖上地区は見渡す限り、あまりに平坦な土地でした。
生い茂る雑草の合間に、住宅の土台がわずかに覗きます。
すべて流されたのだ、という現実に、息をのみました。
あの海から津波は襲ってきて、
あの辺りにあった家を壊して、
この場所を通過して・・・。
3年半前のあの日の惨状を想像すると
なんとも言い難い感情と共に、涙があふれてきました。
当時の様子を、佐々木さんが話してくれました。
声を震わせ、目に涙を浮かべながら。
その真剣な姿に触れ、学生も心を震わせ聞き入ります。
日和山のすぐ南隣には、塔が建っていました。
今年8月、月命日の11日に建立された慰霊碑。
未来への希望を感じさせる「芽吹き」をイメージしたモニュメントです。
静かに手を合わせた後、学生たちはそれぞれ取材を始めました。
視察に来ていた人、ボランティアの人、再開した市場で働く人・・・。
被災地のいまをしっかり描写しようと、学生たちはメモを取り、シャッターを切りました。
私は数人の学生とともに、佐々木さんの話に聞き入りました。
慰霊碑のそばの看板に連ねられた犠牲者御芳名を背に
津波で犠牲になった友人や、家族を失った知人の話をしてくれました。
「家族を失った人に、なんと声をかければいいかわからない」
「寄り添うのは難しい」
佐々木さんは打ち明けました。
インターン2日目、河北新報の今野報道部長が話していた
「『寄り添う』『絆』といった表現は使うのが難しい」という言葉を思い出しました。
震災のことを思い出したくないという人は、決して少なくないと言います。
佐々木さんも、当時のことを口にするのは辛いはずですが、
それでも私たちに、自身の体験と教訓を語り継ごうとしてくれました。
「閖上では、誰も津波のことを想定していなかった」
「津波が来ると普段から身構えていれば、被害はこんなに多くなかった」
「だから閖上のことを皆さんに伝えたい、知ってほしいのです」
佐々木さんは力を込めました。
旧閖上中学校に続く道で、目を疑いました。
根元からすっかり折れ曲がったガードレール。
津波の威力をあらためて感じました。
閖上中学校の校門前には、慰霊碑がありました。
犠牲になった生徒14人の遺族会が建てたそうです。
津波で亡くなった生徒一人一人の名前が刻まれています。
名前に触れてもらいやすいようにと、大人の腰ほどの高さで、
表面は緩やかにこちらに傾斜しています。
私もそっと手を当てて、冥福を祈りました。
中学校の時計は、2時46分で止まっていました。
地震による停電で止まったのか、揺れで故障したのかはわかりません。
「家族を失った方の中には、その事実を受け入れられない人がいます。
あの日から時計が止まったままの人がいるんです」
という佐々木さんの言葉を、思い出しました。
校門そばにある「閖上の記憶」というスペースにも足を運びました。
NPO法人地球のステージが運営する伝承のための施設。
10分ほどのショートムービーが上映されており、
あの日の津波の様子、その後の閖上小中学校での子供たちの姿を見ることができました。
津波襲来時に上空から撮影された報道映像も見ることができました。
先ほど自分が立っていた場所に、
津波がすべてを飲みこみながら押し寄せてくる映像を見て、
涙が止まりませんでした。
バスで15分ほど走ると、閖上さいかい市場です。
お昼は、市場の惣菜店「匠や」さんが用意してくれたお弁当。
加えて佐々木さんが、自慢のささかまぼこを添えてくれました。
お弁当もかまぼこも、とてもおいしかったです。
食べ終わったらまた取材です。
各々自由に探索します。
水産加工品屋さん、中華料理屋さん、酒屋さん・・。
ほとんどの店が、かつては閖上にありました。
その中に奇抜な看板を発見しました。
写真の下から二番目です。
気になったので、お邪魔しました。
写真を撮り忘れてしまいましたが、内装は一般的なラーメン屋さん。
「油そば」のお店でしたが、お弁当の後なので、かき氷をいただきました。
店主さんの本業は、実は舞台役者!
自称「シャイシャイボーイ」の、とても気さくな方でした。
バスで河北新報に戻ります。
市場ではお腹も心を満たされましたが、
みんなの心の奥にはきっと、
もっと複雑で忘れがたい感情が満ちていることでしょう。
私は今日
佐々木さんのお話を聞いていた時、
克明に再現される当時の悲惨な様子と、
悲痛そうに言葉を紡ぐ佐々木さんの姿に、
自ずと涙があふれ、
体が動かなくなってしまいました。
「記事にするのに必要な情報を聞かないといけない!」
「しっかり取材しなければならない!」
「写真も撮らなければならない!」
そう思いながらも、そんなことに注意を払う余裕がないほど、
言葉を受け止めるだけで精いっぱいでした。
震災の記憶を聞くというのは、
これほど難しく、痛々しいことなのかと思いました。
本物の記者の方々は、地震発生から間もない時点で現地に入り、
より切実な叫びに耳を傾け続けたはずです。
圧倒的な惨状を前に、無力感にさいなまれながらも、文字にし続ける。
この3年半の被災地取材が、どれほど重く険しい歩みだったか、
その一端を垣間見て、「新聞記者ってすごいな」とあらためて思いました。
インターンは、明日が折り返し地点。
すでに多くの想い、言葉、生き方に出会ってきました。
メインの「被災地の中小企業」取材も、いよいよ執筆に入っていきます。
今日の経験を糧に、今後も駆けていきたいと思います。
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